水木しげるという人のことを、私は「ゲゲゲの鬼太郎」の作者であり、妖怪のことについて詳しい人、鳥取県出身で水木さんの地元に「水木しげるロード」という妖怪の銅像がたくさん並んだ道がある、という程度の印象しか持っておらず、どのような人柄だったのか、どのような人生を歩まれた方だったのかは全然知りませんでした。
今回紹介する「ほんまにオレはアホやろか」は、そんな水木しげるさんが自身の半生を描いた自伝的エッセイです。
子供の頃のことから戦争で南の島に行ったこと、終戦後の暮らしの様子などが時系列に沿って生き生きと描かれ、水木さんをはじめ人々の息遣いが聞こえてくるような気がしました。
水木しげるさんの視点や生きる基本的な姿勢には不思議と人を惹きつける力があって、多くの著名人が水木しげるさんを慕われている気持ちがよくわかりました。
学校の勉強を全然しなかった子供時代
本書によれば、水木さんは学校の勉強をほとんど言っていいほどしていなかったようです。学校にもあまり真面目には通っていなかったようで、こんな風に書かれていました。
ガキ大将の仕事で忙しかったから、勉強はやるひまがなかった。それに、奇妙は愛きょうも手つだって先生は、あれは特別だから、とおかしなソンケイまでされるようになった。それでますます勉強しなくなった。
家で勉強しなかったのはもちろんのことだが、学校でだって勉強はしない。遅刻にしてからひどかった。とくに冬は寒いので、9時ごろまで寝ている。兄や弟は、とっくに起きて、朝食もまともに食わずに学校にすっ飛んでいくのだが、ぼくはゆうゆうと起き出して、兄や弟が食いそびれたぶんまでも全部たいらげてから登校するのだ。
先生も親も呆れて怒らなくなり(最初の頃は相当に怒られたようです)、徐々に治外法権的な存在になっていた水木さんですが、学校の勉強の代わりに自分が好きなことには非常に熱中する子供でした。昆虫や貝殻や海藻などをコレクションしてスケッチしたりと自分の世界に入り浸っていました。
妖怪や伝説の研究も子供の頃から夢中になっていたようです。とくに、近所に住んでいたおばあさんで一人、やけに伝説や宗教に詳しい方がおられ、水木さんがのんのんばあ、と呼ぶそのおばあさんが水木さんに与えた影響は相当なものだった様子がうかがえました。
今から数十年前には、どの地方の町や村にもこんなばあさんが一人や二人はいて、不気味な、それでいて味わいのある話をしてくれたものなのである。
のんのんばあは、山へつれていってくれれば山の妖怪、海へつれていってくれれば海の妖怪、というように、あたりに満ち満ちている自然の精霊というものについて話してくれた。
のんのんばあは、七夕になればその由来、とんどさんという正月のしめなわを焼く行事になればそのいわれ、そういったものをぼくに教えてくれた。
ぼくは、のんのんばあの話を聞きながら、祖先の霊が自分の心の中に入ってくるような感じがしていた。
まさに枠に収まらない子供、という感じがしますが、水木さんが子供だった大正から昭和初期の時代には、自然やその中での不思議な事象について現代と全く違う感覚があったのだと思いますし、そんな感覚を好み、敏感に感じながら育った様子が伺えました。
戦争と土人
水木しげるさんは戦争経験者で、実際に戦地へ行かれています。水木さんの赴いた戦地は、インドネシアの東、オーストラリアの北東に位置するパプアニューギニアのラバウルでした。
戦地に行くまでの当時の日本の様子も本書では描かれているのですが、戦争が始まり少しずつ暗い時代へと移ってゆく感じ、嫌な戦争の気配が少しづつ人を狂わせてゆく様が生々しく描かれていて、とても不気味な感じがします。
水木さんはラバウルで、文字どおり九死一生の体験をされています。敵に追われ、木の陰に隠れた水木さんのわずか10m先を、追ってきた敵が水木さんを探し求めやってくるところなど、読んでいて本当に怖いと感じました。
この戦地にて、水木さんは左腕を失われています。この出来事に対する水木さんの取り上げ方がすごい。腕を失った場面のことについての描写は、なんとたったの一行だけです。
目のまえがぴかっと光って、あーっといったら、腕の負傷で切断である。
腕をなくしたことに関して直接的に書いているのは、この一行だけ。これって、すごくないですか。普通の感覚なら、それがどれほどに辛いことだったか、片腕で戦地を生き抜いたことやその後の暮らし、仕事への影響などを描きたくなるのが人情なのではないかと思うのですが、水木さんの感じは「まあ、そんなこともあるよね」といった程度の軽い扱いで、恨み節の気配すら感じさせません。
あまりに触れられていないので、戦後の生活の様子を読んでいても水木さんが片腕を失われていることをうっかり忘れて、時折ある挿絵で左手の袖のところがだらりと垂れ下がっているのを見て「あぁ、そうだった」と思い出すようなことでした。
ラバウルの戦地で、水木さんは現地の村に住む人々と交流を持ったことがきっかけとなり、水木さんの人生観に重ね合わせます。
水木さんは原住民のことを呼ぶのに、土人、という表現をこだわって使われます。現代では土人という言葉の中に侮蔑のニュアンスが織り込まれる場合があることを指摘してあまり見聞きすることがない言葉になっていますが、水木さんが土人という言葉を使う意図は、彼らへの愛情と敬意の念からでした。水木さんが土人のことを幸福人と呼んでいるのがとても印象的です。
そんな彼らの生活スタイルに、水木さんは次第に魅了されていきます。
われわれブンメイ人とは人生観がちがうせいだろうか、なんともゆったりしていていいのだ。本当の人間にはじめて会ったような気がした。
とにかく、土人たちの生活は精神的に豊かで充実しているのだ。ブンメイ人のせかせかした生活がばかばかしくなってくる。彼らは、午前中三時間ばかり畑仕事をするだけだ。それだけで、自然の神々は彼らの腹を満たしてくれる。人一倍作って、冷蔵庫なんぞに貯えておく必要はない。いるだけ作って、いるだけ食えばいいのだ。自然の神は、彼らの心まで豊かにする。
ある夜、月が美しかったので、兵舎を抜け出し、土人の村へ行った。すると、土人たちは月を眺めて寝そべり、虫の音に聞きほれているのだった。
こうして、ぼくは土人たちとますます親しくなっていった。土人たちは、ぼくに畑もつくってくれ、パウロ(彼らの間で聖書を読んでいる者がいて、聖書の中の人名からついた)という名前までつけてくれた。ぼくは、このまま土人たちと一生暮らすような気分になっていた。
実際に、ラバウルで終戦を迎えた水木さんは一度は現地除隊(出兵先の場所でそのまま軍人をやめること)を申請しています。本当に、そのまま土人と一緒に暮らそうと思ったのです。ちなみにラバウルにいた日本軍の中で現地除隊を申し出たのは水木さん一人だけだったそうです。
「一度は日本に戻って両親にも顔を見せるべきだ」と馴染みの深かった軍医が一生懸命に説得したことで、一旦は日本に帰ってからまたラバウルに戻ってくるということに決めた水木さんでしたが、この軍医さんが説得しなければ水木さんは本当にラバウルで土人となって一生を送っていただろうという気がします。
そうして日本に戻った水木さんは、戦後の混沌とした日本で絵を描きながら生計を立てて行くのですが、働いても働いても入ってくるお金は少しで、暮らしぶりは相当に貧しかったようです。私が知っている水木さんは既に「ゲゲゲの鬼太郎」で不動の地位を築いた後ですが、それまでの苦難の道は本書で綴られた内容から見ても相当なものでした。
その頃の状況を示す、こんな一節も。
年中無休で、しかも一日に16時間は描く。生きるために仕事をするのか、仕事をするために生きるのか、まるでわからないような毎日なのだ。寝ている間だけにしかシアワセはなかった。
唯一の楽しみは、バナナを買うことだけだった。商品にはならないようなくさりかけたバナナを一山100円で売っているのを買うのだ。ぼくはラバウルの体験から、バナナはくさりかけがうまいということを知っていたから、あまり気にならないのだ。
部屋代を滞納することも珍しくなかったようですが、管理人の老人が「あんたみたいに働いてるのに部屋代が払えないのだとするなら、悪いのはあんたじゃなく、世の中の方だ」と言って無理な取り立てはしなかったそうです。
またある時は、税務署から人がやってきて「申告してもらった収入があんまりに少なすぎるから、ごまかしてるんじゃないか」と言うので水木さんが「あんたらに、われわれの生活がわかるもんか」と一喝して追い払うような一幕も紹介されていました。
そんな風に、混沌とした世の中を大変に苦労しながら生き抜いて(そう表現するのが本当にしっくりくる)きた水木さんですが、そこに悲壮感が全く感じられないところがとても印象的です。
水木さんは、どこか人生を達観して見ているようなところがあるように思います。巻末で他の方から水木さんのことを解説している部分があるのですが、「水木しげるは面白い。めちゃくちゃに面白い。マンガも面白いし、文章も面白いけれど、水木しげる当人はもっと面白い。」と言われるのもよくわかる気がします。
水木さんは、子供の頃から一貫して持っていたという人生観をこんな風に綴っています。
大地の神々がぼくを守ってくれているというようなことを本能的に考えていたのだ。この地上に生まれてきたからには、その地上の神々がぼくを生かしてくれるにちがいない、大地の神々にそむくようなことをせずにいれば、あくせくする必要はない、他の人の目から見れば不真面目でも、ぼくの生き方こそ真面目なのだ、こう考えていた。
そして、そんな水木さんの人生観は、実に30年の時をへて再開したラバウルの人々の姿を目の当たりにして共鳴します。
再開して年齢を訪ねた青年の「さあ?」という反応に、水木さんはこのように思います。
そうだ、考えてみりゃあ、年なんかどうでもいいんだ。生き物には、生きるか死んでるかの二種類しかないんだ。トンボとか、猫とか植物もそうだ。人間だけが時計なんか作って、自分で自分の首を絞めているんだ。
アフリカのピグミーたちは「急ぐことは、死につながり、ゆるやかに進むことは、生を豊かにする」と信じているらしいが、全くその通りだ。自然は人間を、急き立てるようにはつくってはいない。土人たちは、自然のリズムに従って、生活しているから、こんなに楽しいのだ。
子供でも、こんなに笑っていいのかなァと心配になるぐらい、のびやかに笑う。なるほど、この笑いこそ、人類が長年求めた、幸福ってやつじゃないのかなァと、思われるくらいだ。
鳥とか虫とかの声と混ざって、自然に調和しているのだ。確かに、われわれは、物質には恵まれているかもしれないけれども、なにかを落としてしまったのだ。
水木さんは、自分のことを「点数レースは得意ではない人間」と評しています。
子供の頃から学校の勉強に馴染めず、自然の中で先人たちの知恵を聞き、学びながら自分の人生観を作ってきた水木さんは、点数レースに血道をあげて物質的な豊かさを求める周りの人々を見るにつけ「ほんまにオレはアホやろか」という気にもなりがちだけれど、本当はそんなことはないと断言されています。
自然界では、どんな虫でも獣でも、自分でエサを探して食べるのだ、と前置きした上で、自分がこれだと思えることは、たとえ他から見てバカなことでもなんでも粘り強く努力することで、そえが生きがいになったりもするものだし、気がつけば天の報いみたいなものがあったりするものだと。
努力が全てではないものの、水木さんの生き様を知った後にそれを言われるともう頷くしかないような気持ちです。
水木さんの「大地に生かされている」という考え方や自分と異なるものに対する寛容性、個性を大切にしながら学ぶスタイルは、現代の成熟社会にこそ求められていることのように思います。
水木さんがそのことを書いたのは、1978年。高度経済成長期が過ぎて学歴社会の真っ只中にあって、このような感性を持たれていたことは本当にすごいことです。物質的な豊かさよりも精神的な豊かさの大切さを知り、己の境遇に対して恨み節ではなく達観して「こんな生き方でもいいんだよ」とあっけらかんと話す水木さんは、まさに人生の達人であったのだなあと思い至りました。
水木しげるという人物の魅力に存分に触れることができる本書、お勧めです。
以上です。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
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