私は現在ベトナムに住んでいる事情から、英語でコミュニケーションを取らなければならない場面に日常的に遭遇しているのですが、
「I think …」から始まるフレーズを結構口にしています。
そしてこれは、私に限らず多くの日本人に共通の傾向のようです。
このことは、ネイティブで英語を話す人からすると、少々違和感を感じるそうです。
日本人が自分の意見を言うとき、「~と思います」というフレーズを実に多用します。
これが英語に置き換わるときに、馴染みの深い言い回しとして「I think」となる訳です。
「think」という言葉は確かに「思う」という使い方もありますが、ネイティブの受け止め方としては、どちらかというと深く思考を巡らせてたどり着いた結論としての「思う(考える)」というニュアンスであるようです。
なので、日本人が頻繁に「I think」を連発することで、ネイティブにしてみると「日本人はそれほどまでに思慮深い人種であるのか」と困惑するのだそうです。
本の要約
「考える」とは何か?思うことや知ることとの違い、関係はどうなっているのか?
人間の「考える」ということについて、知の巨人と言われる外山滋比古さんのユニークな考えが綴られている一冊。
文中で著者が自ら述べているように、いわゆるハウツー本ではなく、エッセイの形式で書き綴られていますので、内容は極めて学術的ながらも非常に読みやすく面白い。
著者によれば、考えていることをエッセイにするということも自らの思考を整理する上で重要な意味を持っているとしていて、この形式が著者にとっての思考の整理にもつながっているというも面白いところです。
「考える」ということについての楽しさ(とても贅沢な楽しさ)を感じることのできる一冊。
コンピューターのこと
本書で、コンピューターのことについて描かれているところがありました。
(ちなみに本書が刊行されたのは1983年です。)
産業革命で機械が人を工場から追い出したという歴史があります。著者は、人はそこから学ばなければならないと指摘しています。
コンピューターは計算機の殻を脱皮すると、少しずつだが人間頭脳の働きに近づきだした。
人間は何かというと不平を言うが、コンピューターは文句を言わない。労働基準法に縛られることもないから、不眠不休も可能である。泰平の夢に慣れてきたサラリーマンは思いもかけぬ強敵の出現に、もっと驚かなくてはならないはずだ。
社会的に自然淘汰の法則を受けないではいられない。”機械的人間”は早晩、コンピューターに席をあけ渡さなくてはならなくなる。産業革命を考えても、この予想はまずひっくり返ることはあるまい。
この本が、知ることよりも、考えることに重点を置いてきているのも、知る活動の中には”機械的”側面が大きく、それだけ”人間的”性格に問題をはらんでいるとする考え方に立っているからである。
どういうことが機械にはできないのか。それを見極めるのには多少の時間を要する。創造性といった抽象的な概念を振り回すだけではしかたがない。
改めて書きますが、本書が刊行されたのは1983年です。
1983年のコンピューターがどうであったか?
任天堂の初代ファミリーコンピュータが発売されたのが、ちょうど1983年でした。
その時点で既にここまでの予測をしているということに、驚愕しました。
いま、コンピューターの行きついた先のAIというものに言葉は置き換わり、改めて人は選別にかけられようとしています。
これから人はどうすべきか。
答えは一様ではないですが、考えるべきことは歴史や本から知ることができるはずです。
人間らしく生きていくことは、人間にしかできない、という点で、優れて創造的、独創的である。コンピューターがあらわれて、これからの人間はどう変化していくであろうか。それを洞察するのは人間でなくてはできない。これこそまさに想像的思考である。
今の時代、AIと人間の仕事がどのように変化していくのか、というこの局面にあって、あらためて本書から「思考とは何か」を考えることは、大きな意味があると感じました。
37年前に書かれた本ですが、全く古さを感じないどころか斬新ささえ感じるほどの著者の思考が綴られています。
学術的、哲学的なテーマですが、肩の力を抜いてじっくり読みながら考える楽しさを味わえる、そんな一冊でした。
以上です。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
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