神棚の使い方を知っていますか。
日本人にとって神棚は身近な存在ですが、その神棚のこと、その使い方について詳しく知っているという人は意外と少ないかもしれません。
そう言う私も、知っているようで知りませんでした。
今回紹介するのは、そんな神棚についてその大切さや存在意義、そして神棚の力を引き出すための方法についての一冊です。
本の概略
真の成功者とは、社会的成功と人間的成功の両方を実現している幸福な人。
そんな人たちが決まって大切にしている事は、神棚を祀り、神社に参拝をすること。
神棚は取り付ければ良いというものではなく、正しく「使う」ことが大切。
本書はそんな神棚のこと、祀るということから始まり、神棚が持っている力の使い方を身につけるための本です。
神棚とは何か
神棚とは、「棚板」と「宮形」とお祀りするための道具「お榊、セトモノセット」を合わせた総称です。
神棚という言葉を聞いて漠然とイメージするものがあると思いますが、この最後のお祀りするための道具がなければ神棚とは言えないのがポイントです。
棚板や宮形だけでなく、お祀りの道具と合わせて「祀る」という行為を伴うことで、初めて神棚となります。
ちなみに私の実家にも神棚があるのですが、私は「祀る」ということを完全に誤解していました。
お札やお守りのような神様に近いものを少し高いところに「置く」ということを「祀る」と勘違いしていました。
それも、誰かからそう教わったわけではなく、ただ漠然と自分が勝手に想像していただけでした。
いかなる神様のお神札やお守りを置こうとも、神様を「祀る」という行為がない限り、それらは全く意味を持ちません。
誤解を恐れずいうと、神棚はただの木です。神社でもらえるお神札は、ただの紙です。人が信じる、敬うことで、それらはありがたいものに変わります。
ドキッとする言葉でした。
祀るとは何か
では、「祀る」というのは一体どういうことでしょうか。
「祀る」というのは、自然からの産物を棚板、宮形と一緒に神様にお供えして、感謝とお祈りをする行為のことをさします。
自然の産物とは、米、水、塩、お酒です。
神棚にこれらのものを供えるのには、ちゃんと意味があったんですね。米も、水も、塩も、お酒も、元々は人間が作ったものではなく、自然の中から生まれたものでした。自然の産物とは、すなわち神様からの贈り物とも言えるわけです。
感謝するのは、これらの恵みに対してだけではありません。
今自分の身の回りで起きている一切のこと、良いことも悪いことも全て含めて感謝し受け入れる心を持つことです。
では、お祈りとはなんでしょうか。私は自分が満たされたいものなどを「ぜひお願いします!」というような調子でお願いしていましたが、これはお祈りではなくて「お願い」でした。
お祈りとはそのような利己的なものではなく、世のため、人のためになることを「叶えさせてください」と祈るもの。
お祈りという言葉の元にあるのは、「いのちの宣り言(のりごと)」、自分という命が心の底から語る言葉、ほとばしるものだそうです。
私利私欲の「お願い」ではなく、それぞれの人の個性に根ざした祈りや世に向けた言葉にこそ、神様の心に叶うそうです。
自然からの恵みを感謝の気持ちでお供えすること、
すべてのことを感謝の気持ちで受け入れ、世のため人のためを思って真心から祈ること、
これが「祀る」ということなのでした。
*
ところで本書の中で、「感謝すること」の本質を説明するくだりで一冊の別の本の紹介がありました。「びんぼう神様さま」という本です。
「粗末な板切れの神棚に寝そべりながら、びんぼう神はフウーッとため息をついた。
『なんでわしは、神様って呼ばれるんじゃろう?』」
このような書き出しで始まる『びんぼう神様さま』(地湧社)は、人と神様のつながりについていろいろ考えさせてくれる、非常にユニークな作品です。
ある貧しい農家夫婦の神棚に住み着いた、びんぼう神。びんぼう神なので、その夫婦はいっそう貧しくなってしまいます。でも、その夫婦は毎日健気にびんぼう神に手を合わせます。
それで、びんぼう神が悩んでしまうのです。
そもそも、そこに居るだけで不幸になることしかしてやれない自分が、なぜ手を合わして拝まれ、なぜ神様と呼ばれるのだろう。
「大神様」のところへ相談に行ったびんぼう神が、大神様から教わったことが何か。
いっそう貧しくなるのにいっそうびんぼう神に感謝する農家夫婦、
そしてびんぼう神が気づく大切なこと。
貧乏の中にも神があり、病の中にも神があり、死の中にも神がある。当然、神を祀る人間の中にも神がある。この物語は、自分のあり方に悩んだびんぼう神が、松吉夫婦に感謝されていくうちに「拝まれる」に値する、立派な神様に成長していく過程を追っていきます。
この本も、とても面白そうで興味を持ちました。
神棚とビジネスには関係があるのか?
なんと銀行の融資担当は、融資する会社が信用できるか否かを判断する1つの物差しとして
その会社に神棚があるかどうかも見ているそうです。
神棚を祀るということは、目には見えないものを信じる・信じようとする力を持っているということ。会社を経営するということは、目には見えない未来を信じ、見えない未来を見ようとする力が求められることです。
神棚を祀ることと、未来を見ようとすることには、共通する心があるのでした。
また、神棚を祀るということは、神棚をいつも清潔にして清々しい場所にしておくことです。
仮に神棚を掃除せず、荒れ放題・埃まみれにしたとしても、神様は文句を言いません。
この、文句やクレームのつかないような場所をいつも清潔にして清々しくしておくということがとても大切です。
注意されなくても率先して清潔にしようとする心があれば、清潔でないと注意されるようなところにも自然と気がつくようになるものです。
そして、こういう「気がつく力」は、必ずや仕事にとってもプラスに作用するでしょう。
神棚を祀ることがビジネスにも関係があるのは、そういう理由からでした。
本からの気づき
この本から、「感謝すること」ということについて学ぶことが多かったように感じました。
印象に残るフレーズもたくさん出てきました。
神様の世界には物質的な富はなく、したがって物質的な富の表示にすぎない「お金」は存在しないということです。
「いただきます」とは、給食を作ってくれたおばさんたちへの感謝ばかりではありません。自分の生命と引き換えに私たちの食事になってくれた動物や魚、野菜などの食物に対して「命をいただきます」「心して食べます」という感謝の気持ち、供養の気持ちの表現です。
「お天道様が見ている」 この言葉ほど、日本人の倫理観をよく表現しているものはないかもしれません。
いくら「きちんとしよう」と思っても、それには限界があります。そのために必要なのが、掃除であり、挨拶といった、具体的な行動なのです。最初は形だけでもいいので、続けていくうちに心がこもってくる。そのうち本当に「きちんとする」。
それがまさに「形より入って心に至る」ということです。
9つまで満ち足りていて、10のうち1つしか不満がないときでさえ、人間はまずその不満を真っ先に口から出し、文句を言い続けるものなのだ。
個々人の願望を、神様も仏様も聞いてはくれません。
神棚の標準的なサイズは、長さ(間口)1100ミリ、幅(奥行)360ミリです。この大きさにも意味があります。
木ほど「神様からの恵み」と呼ぶにふさわしいものはありません。
神々と木々は切っても切れない深い関係があります。神様のことを一柱、二柱と、あたかも木を数えるように数えてきた古代の日本人にとって、樹木こそ、この世に現れた神のような存在として認識されたのでしょう。
神棚は、日本人にとってはとても身近なものですが、その意味や正しい使い方について教わるきっかけは意外と少ないのではないでしょうか。
私自身、ベトナムに赴任するにあたり家族がわざわざ頂いてきてくれた祈祷札を祀らないどころか、随分と粗末に扱っていたことに本書を読んでから気がつきました。
これでは、せっかくお札をもらってきてくれた家族に申し訳がありません。
早速、近くの雑貨店に行ってお祀りするための道具を用意しました。さすがに神棚はありませんでしたが、住んでいる部屋の少し高い位置にある棚を綺麗にして、そこに祈祷札とお供え物セットを置くようにしました。
本に書いてある通りに、お米、水、塩を朝起きてすぐに新しいものに取り替えるということをやって見ました。
不思議と、清々しい気持ちになりました。
良い習慣となるように、これからも続けるつもりです。
今の時代は昔と違って、人の心に神様がすむスペースも少なくなっているかも知れません。それでも、昔から日本人が大切にしてきた感謝の気持ちや祈りを捧げる気持ちを忘れたくないと思いました。
昔ながらの方法に厳密に沿わなくってもいい、今の時代に合わせたやり方もあるはずです。それが温故知新ということなんだと思います。
以上です。
最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。
最近のコメント